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FEATURE

2017年11月。福岡空港国内線に、ラーメン店の集合施設「ラーメン滑走路」がオープンした。ここに出店した大阪の「博多純系豚骨ラーメン まんかい」オーナーの奥長義啓さんは、力の源カンパニーで19年間勤め上げて独立した人物。一方、この施設のコンセプトプランニングやテナントミックス等のコンサルティングを手掛けたのが、力の源カンパニーでディレクターを務める小川剛。旧知の仲であり、盟友とも呼べる2人に、ラーメンのこと、力の源のこと、飲食業界で働くことの魅力などを、大いに語ってもらいました。

ファシリテーター 関口 照輝(せきぐち てるき) 力の源ホールディングス

ワクワク、不安、緊張がこだまする、
第2の故郷・福岡の「ラーメン滑走路」への出店。

関口まずは奥長さんに伺いたいのですが、今回福岡に、こうして自分のお店で戻ってきた率直な感想はいかがですか?

奥長出身は岐阜の大垣だけど、第2の故郷は迷わず福岡。一風堂にお世話になったのが19年ですから。「まんかい」を始めてからも、いつか必ず福岡には帰ってこようと思っていました。タイミングは定めてなかったけど、今回小川さんにお話を頂いて、「よし、やってみよう」と。一風堂を離れてからも定期的に福岡には来ていたけど、今回は湧き上がる感情が違いましたね。また以前のように福岡博多の人々にラーメンが作れるというワクワク、不安、緊張がこだまして。でもやっぱりワクワクがすごいです。

奥長 義啓(おくなが よしひろ)
「博多純系豚骨ラーメン まんかい」オーナー


1968年、岐阜県に生まれ、味噌ラーメン店を経営する両親の元で育つ。アパレルメーカーでの営業を経て、26歳のときに力の源カンパニー入社。関西エリアマネージャー、営業本部長、取締役を歴任。シンガポールや香港、台湾など、海外の事業展開にも尽力する。19年間勤め上げた後、2013年、大阪市福島区に「博多純系豚骨ラーメン まんかい」を創業。芳醇で深みのあるスープが評判となり、関西では瞬く間に注目店となる。現在、大阪と福岡に4店舗を経営中。
http://www.ramen-mankai.com/

関口小川さんが「まんかい」を推薦されたんですよね?

小川  そうです。コンサルティングとして、福岡空港ビルさんのリーシングのお手伝いをしました。リーシングのコンセプトとして、九州各県のラーメン店を揃えるという考え方もありましたが、やっぱり空港という場所柄、いろんなラーメン店が降り立って、また巣立っていくというストーリーが良いのではないか、という話をして、それで大阪の「まんかい」を推薦したんです。

関口「まんかい」という屋号はどういう意図で付けたんですか?

奥長自分が2歳の頃に両親が岐阜でラーメン屋を開業して、26歳のときに親父が55歳で亡くなったんです。ちょうど命日が4月6日で、大垣の桜の満開期と重なって。入院していた病院の病室の向こうに満開の桜が見える時期だったんですね。その光景がとても印象的で。手の施しようがない状況で、目の前に見える桜吹雪。涙のようにも見えたし、拍手喝采のようにも見えたし、とにかくその光景が目に焼き付けられた。それ以来、桜の季節になると父親の命日のことを思い出す。自分がラーメン屋になったのは父のおかげだし、父が見てくれているかなと。それで「まんかい」と名付けしました。

関口ラーメンも「純とん」「潮とん」「トマとん」と、ネーミングが印象的です。

奥長「純とん」は「博多純系豚骨」の略で、これは実は小川さんが付けてくれたんですよ。

小川  やっぱり「一風堂」で20年近く実直にやってきた人ですし、営業本部長や取締役として、1,000人以上のスタッフを率いる立場だった人。だからこそ、作るラーメンは“博多純系豚骨”を名乗ってほしかったんですよね。一風堂を離れていっても、一杯のラーメンと一人のお客様を大切にしてほしい。そういう願いを込めたかったし、“博多純系”を名乗れるのは奥長さんくらいしかいないと思ったんです。

小川 剛(おがわ たけし)
株式会社 力の源カンパニー


1963年、横浜生まれ。青山学院大学卒業後、1994年にオープンし年間150万人以上を集客した「新横浜ラーメン博物館」設立プロジェクトに参画し、13年に渡り集客企画の立案に携わる。2003年、「博多一風堂」を運営する株式会社力の源カンパニーに転じ、広報宣伝、店舗開発を担当する他、同社初の海外店舗となる「IPPUDO NY」設立プロジェクトを手がける。2011年には、駅ナカ向けラーメン業態「TOKYO豚骨BASE」を総合プロデュースするなど、飲食業態プランニングに従事。
https://chikaranomoto-consulting.com/

衝撃だった一風堂との出会い。
「準備ができたらいつでも来い」という河原代表の言葉。

関口お二人それぞれの、力の源との出会いについて教えていただけますか?

奥長両親が味噌ラーメンの「どさん子」をフランチャイズで経営していて、いつかは自分の店を持とうと思っていました。最初はアパレルメーカーでサラリーマンをしていたけど、その時代も食べ歩きをしていたんです。当初は味噌ラーメンの店をやるつもりだったんだけど、東京へ出張に行ったときに初めて「丸金ラーメン」を食べて衝撃を受け、それが豚骨ラーメンに興味を持ったきっかけです。ちょうど同じ頃に、新横浜ラーメン博物館のドキュメンタリーをやっていて、そこに一風堂も紹介されていました。河原社長(現:力の源ホールディングス会長)と中坪さん(※中坪正勝さん。現在は「麺の坊 砦」店主)が出ていて、むちゃくちゃかっこよかった。ここに行って、福岡でどこのラーメンを食べればいいか聞こうと。そしたら、中坪さんが3泊4日なのに27軒くらい注目店舗を付けてくれて、それを全部食べて、レポートも書いていきました。その中でも一番美味しいと思ったのがやっぱり一風堂だったので、そのときに本店に行って河原社長に直接面接してもらったんです。自分の想いをぶつけて、レポートも読んでもらっていました。そしたら、「合格も不合格もない。こうやって行動しているのだから、準備ができたらいつでも来い」と。それで、本物の豚骨をやろうと、5年間の修行のつもりで門を叩きましたね。

小川  僕は2003年の入社です。それまでは新横浜ラーメン博物館で広報や企画立案など、立ち上げの頃からいろんな仕事を経験させてもらっていて、河原社長とも懇意にさせてもらっていました。ラー博を卒業しようとしていたときに、河原社長から「これからどうするんだ? 一緒に仕事しよう」と誘われて今に至ります。入社してすぐ、「全国の店舗を見て回れ」と言われて、すべての店を回って味や環境についてのレポートをまとめたのが最初の仕事ですね。その当時、関西地区のマネージャーをしていたのが奥長さん。僕は、広報や店舗開発の仕事をしていて、特に店舗開発をやるようになってから、奥長さんと接する機会も増えていきました。

関口小川さんから見た奥長さんはどんな方ですか?

小川  根本的にまじめだし、曲げない人。それから、人をモチベートすることに重きを置く人。ちょうど自分も店舗統括部長をしていた時期があって、そのときにいろんな改革を進めたんです。当時は、テレビのラーメン職人選手権で河原社長が優勝して、一風堂が有名になったあとの波が少し落ち着いていて、次のステップを見据えた対策が必要なフェーズでした。クレームゼロプロジェクトを立ち上げたり、再来店を促すポイントカードの制度を作ったり、いろんなことを一緒にやりましたね。

奥長自分でそういう風に意識したことはないんだけど、小川さんにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。僕にとっては小川さんは人生の先輩で、遠慮なく甘えて良い人、というのかな。そしたら何とかしてくれるし、絶対に人を悪いようにはしない人ですね。一番密に仕事をしてきたし、すべてを受け止めてくれる人という印象です。それは今も変わらなくて、一風堂を卒業してからも一番たくさん電話しているのが小川さんですね(笑)。

ラーメンの面白さは、間口が広いということ。
自分の姿勢一つで、その反応が変わってくる。

関口お二人の感じるラーメンの面白さって何だと思いますか?

小川  ここ15年くらい、醤油、味噌、豚骨、塩といった従来のラーメンが進化して、いろんなジャンルのラーメンが生まれています。「ラーメンは可能性がある。決まりがなくて、多様性があって、組み合わせは自由で、無限大だ」といったこともよく言われます。確かにそれは真理で、それがラーメン業界を盛り上げる要素の一つにはなっていると思うんです。でも、それがちゃんと続いているかというと別の話です。例えばこの「ラーメン滑走路」に入っている山形の『満月』さんは、創業60年。シンプルな味わいの中に長く続く理由がある。振り返ってみると、じゃあこの15年くらいに起きたいろんなラーメンブームの中でどれだけ残っているか。それを可能性といっていいのか、という気持ちも正直あります。一風堂も、継続してきてブランド化しているからこそ今がありますが、実際には蜘蛛の糸一本が残るくらいの厳しい世界なんです。ある意味の愚直さや信念が必要で、それを突き詰めれば、世界中に広がっていく可能性もあるというのが、ラーメンの厳しくも面白いところだと思います。

奥長可能性ということでいくと、今の大阪ではサバや、しじみなどの貝、新しい食材を使って出汁を取ったものもあって、そういうチャレンジの広がりというのは面白いなと思って見ています。それともう一つ、可能性が変わらずにあるとすれば、ラーメンは国民食であって、大人から子どもまで食べてもらえるという間口があること。フレンチとかだとそうはいかないでしょう? その分、良い情報も悪い情報も同じように伝わるからこそ、“姿勢”が問われるんですよね。それは言い換えれば、人との縁を大切にできるかということ。今回の空港の店でも、一風堂時代にお世話になった方々と変わらず仕事させてもらいました。それができるのも、自分の姿勢一つだし、店作りを通していろんなジャンルの方と接点をもらえる仕事。そのご縁を大切にしようと思ったら、いろんなところに目を向けないといけない。そこでまた自分が磨かれるのがラーメンの面白さですね。

小川 「ラーメンは鶏ガラ、豚ガラ、人柄」といったのはラーメン評論家の武内伸さんなんですけど、奥長さんはまさにそういう人だと思う。そしてその“人柄”は、店長でもアルバイトでも等しく出せるものなんですよね。その人柄を出せて、地域の人とつながっていけるのがラーメン店の面白いところなんじゃないかなと思います。

奥長そうですね。逆に言えば、しょうもないことをしていたら当然排除される。人格をちゃんと持っていれば、国内でも海外でもやっていける。個人が地域に広めていけるということは先のことかもしれないけど、ちゃんと挨拶しようとか、約束は守ろうとか、そういうことの積み重ねが波紋のように広がっていくんです。生き方一つでどっちにも転ぶし、飲食業はそういう部分が磨かれる機会が多いですよね。

ラーメンが海外で受けているのは、
一杯の丼の中に日本人的心が詰まっているから。

関口今は海外にもラーメンが広がっていって、学生さんも海外で働くことに関心の高い人が多いです。会社説明会でも海外展開への食いつきがすごいですし、HPでも海外の方からの問い合わせが連日のようにあります。お二人は、海外でのラーメンの盛り上がりをどのように感じていますか?

小川  海外でラーメンが受けている理由の一つは、商品目線で言えば、一杯完結の料理というところ。一杯のどんぶりの中に、日本食の魅力的な要素がいろいろ入っていますよね。出汁を取っていること、かえしで味を付けてバランスで勝負するところ、麺も太さや加水率などいろんなバリエーションを生み出せる職人の世界。中国から渡ってきて日本流になった食文化だけど、随所に日本人的心が入っているのが、海外の人にとってはエキサイティングに見えるんでしょうね。

奥長今はすごく海外でラーメンがブームになっているし、それは店をしていて肌で感じます。情報化とともに、海外の人にとって日本を知る1つの窓になっている感じですよね。それこそ僕も「ラーメンを世界共通言語にするんだ」と言ってIPPUDO NYの立ち上げに関わったけど、10年足らずでここまでの状況になったのは感慨深い思いがありますね。

小川  日本のラーメン屋が世界に出て行きました。では30年後、ラーメンは世界でどうなっているかというと、願望も込めてイメージすると、札幌ラーメンだ、喜多方ラーメンだ、というのと同じように、いずれ世界でも地域性のあるラーメンが生まれるんじゃないかなと思っています。おおもとが日本というのは残りつつ、西海岸ラーメンだとか、NYラーメンだとか、世界でそういうご当地ラーメンが出てくると面白いなと思いますし、そうなったときに初めて本当の意味での世界食と呼べるのではないでしょうか。

独立して初めて気付いた、失うことの恐れ。
あの頃の自分に「早く気付けよ!」と言いたい。

関口独立した今、改めてラーメンというビジネスをどのように感じていますか。

奥長やっぱり簡単ではないですね。美味しいラーメンを作るだけじゃ駄目で、失うということの緊張感や責任が全然違います。一風堂ではかつて、1店舗だけ赤字だった時期があって、その時にも必死になって皆で立て直したことがあったけど、その時ですら会社がなくなる可能性や危機感まで持っていたかと問われれば、全然足りていなかったなと。自分の店を持って初めて、本当にそういう意味では思えてなかったんだなと気付いたように思います。「まんかい」も、この福岡空港店がうまくいかなかったら、本当にこの船丸ごと沈んでしまう。そしたら、せっかく集まってくれた仲間と一緒に仕事ができなくなるかもしれない。その怖さは毎日あります。でも本当は一風堂時代に、創業者と同じレベルでそこまで感じないといけなかったんですよね。それは声を大にして、あの頃の奥長に「早く気付けよ!」と言いたい。でも、独立したからこそそれに気付くことができたし、独立に遅いということもないと感じています。同じく独立してお店を持つ人が増えていくと嬉しいですね。

関口今までの力の源での仕事を通して、今の学生さんにアドバイスすることがあればお願いします。

奥長力の源は、学べる環境はバリバリあります。とんでもなく学びのチャネルがあると同時に、それが用意されている分、逆に自ら学びに行くという主体性はどこかで獲得しないといけない。そこに気付けるかどうかじゃないでしょうか。

小川  そうですね。今は海外で働くことを志向する学生さんも多いですけど、先を見たかったらまずは結果を残していこうぜ、というのが本音です。自分の同期、1個上、1個下も含めて、その中で抜きん出た存在になれば次のステージに呼ばれる世界ですから。24時間のうちの2/3は仕事じゃない時間。抜きん出ようと思ったら、そこに自分の時間をどう使えるかだと思いますね。

奥長自分がお世話になっていた頃は、社員の6~7割はアルバイトからの社員登用でした。そういう人たちが今も力の源を支えているし、暖簾分け店主の中にもたくさんいますよね。芯を持って頑張っている彼らに共通して言えるのは、待遇や会社の規模を理由にこの会社に入ってきたのでは決してないということ。人に喜んでもらうことが好きで、何事にも一生懸命で、といった姿勢を持った人たちがたくさんいて、そんな先輩たちの情熱ややる気に触発されて入ってきた仲間たちが、力の源を支えている。そして、そんな大人になりたいと思ってもらえる人になろうと努力し続けることが、また新しい仲間を呼び込むと思うし、時代の違いはあるにせよ、そういう人の根源は変わらないと思っています。関口くんもそうやって力の源に入社したんでしょう?

関口そうなんです。僕自身も、学生時代にアルバイトとして一風堂でお世話になっていて、奥長さんと少しではありますが一緒に働けたのは良い思い出です。大学卒業後は、違う会社を2社経験したのですが、その時もずっと一風堂には食べに通っていましたし、何よりそこで働く尊敬する先輩方に会いに行っているという理由が大きかったように思います。経験した2社は、知名度も高い会社でしたが、力の源はこれから益々そうなっていくのと同時に、ラーメンを世界食にしていくという志があり、それも実現できる会社だと外から見ていました。自分も当事者として関わっていきたいという想いがどんどん高まっていき、改めて社員として入社させて頂きました。

最後の質問になりますが、奥長さんにとっての飲食業の魅力を教えてください。


奥長多くの人とのご縁をキャッチしやすい環境であること。いいボールを投げたらいいボールが返ってくる。その逆もあり。自分次第で良いキャッチボールができていくのが面白いんです。「まんかい」は、今回の出店でスタッフが福岡に引越しまでしてくれています。そういう仲間を多くするだけでなく、絆を太くしていきたい。「まんかい」では不安を煽るようなことも含めて、財務状況まですべてをスタッフに伝えています。そういうことを仲間と共有することに意味があるし、それが突破口になると思っている。ここで働くことが、彼らの人生の中で何かを掴んでもらえるチャンスになれば嬉しいなと思います。それは紛れもなく、自分が力の源で体験させてもらったことだから。

撮影=広瀬麻子、文=前園興
※所属、役職はインタビュー当時のものです。