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力の源に所属しながら
日本の飲食業の変革と発展に貢献したい

原 明弘

一風堂山王店店長 兼 人事・総務本部

採用教育グループ

大学を出て、プロのドラマーとしての道を進む

高知県香美市、のどかな山里が原明弘の故郷である。父母ともに高校教師、普通に恵まれた4人家族であった。
高校までは両親が引いたレールに乗って学び、大学は大阪の追手門学院大学・英米語学部文学科に進む。英語が好きだったことと、英語の中学高校の教師資格が取れることが選択の理由だった。
大学に進むと大好きだった音楽活動を始める。仲間を見つけてバンドを組み、練習と演奏活動にのめり込む。原のパートはドラム、全身を使って表現するそのスタイルに憧れた。
大学を卒業しても、やりたいことが見つからずバンド活動を続けた。「このままでいいのか?」と悩みながら練習を続けコンサートを開いた。そして、本場のアメリカで学ぼうと決意して2000年26歳のとき渡米した。
最初に訪れたのがニューオリンズである。しかし当時のニューオリンズはすでに観光地化され原が求める音楽を見つけることはできなかった。3〜4日滞在してニューヨークに向かうことにした。飛行機代が高かったためグレーハウンドに乗り、2日間の長旅を経てニューヨークにたどり着いた。そんなに遠いとは思わなかったそうだ。
ニューヨークではハーレムにあるジャズバーに通う。そこにはプロを目指す若者たちが集い、見知らぬもの同士がバンドを組んで演奏に入る。原も手を挙げてステージに上がった。まさに武者修行である。そんなステージを繰り返しながら原は感じた。「とてもかなわない」と。
「リズム感、ビート感、音の粒、パフォーマンス、どれをとっても本場のミュージシャンにはかないません。そして日本人には遠くなった、ハングリー精神を強く感じました。そして、日本人にしかできない音楽を目指そうと思いました」。
帰国すると不思議なことに、偶然にも実力のあるメンバーと巡り会うことができた。そして4人で、『ファンキー・パンキー』というバンドを結成して練習に明け暮れた。

音楽の夢破れて一風堂の門をたたく

原は生計を立てるために、梅田地区でアルバイトを探す。そして、オープニングスタッフとして『一風堂梅田店』のアルバイトとなる。面接を担当したのは奥長義啓だった。
『ファンキー・パンキー』は2006年から活動の場所を東京に移す。音楽事務所に所属しながら、一日中音楽浸けの生活に入る。しかしながら『ファンキー・パンキー』は、大きな注目を集めることはなかった。シングルの1曲が、有線放送の問い合わせランキングで、全国4位を獲得したことを除いては。
色々な要因が重なり、原は2008年1月、『ファンキー・パンキー』の活動から離れていった。
「ボーカルと喧嘩状態になりました。今思えば、自分の視野の狭さ、器の小ささもありました。そのときは、自分のことしか見えていませんでした」。 バンドを辞めた原は、大阪に帰って奥長に相談する。原は奥長に信頼を寄せていた。
「働く大人で、初めてカッコいいと思えた人が奥長さんでした。とにかく真剣で、目の前のお客様にいつも向き合っていました。どれだけ体がきつくても、一切表には出しませんでした。話しをするときには、真っすぐに聞いてくれて、叱るときは真剣でした。河原会長の教えをストレートに実践されていたのでしょう」。
そして2008年3月、力の源カンパニーに入社する。最初の配属は銀座店だった。原は入社当時希望を出していた。1年間同じ店舗で勤務したいと。
「私は就職した経験がありませんでした。アルバイトの上に社員は立ちますが、そのポジションを自分で作りたいと思いました。会社から用意されたものではなくて、自分の力で作りたいと考え、そのためにかかるであろう1年間の時を希望しました」。
しかしながら5ヶ月後、原は新店オープンのために新潟へ異動することとなった。そこで原は、大きな学びを得ることになる。

店長の仕事が分からない店長

2008年10月にオープンした新潟店は大成功だった。半年間、毎日100万円超の売上げを記録した。押し寄せるお客様に、現場はいつもてんてこ舞いだった。原は3ヶ月間一日も休むことができず、睡眠時間も3時間程度だった。立ったまま寝ていることもあった。
そんな状況も半年経って激変し、一気に売上げが下降した。2年を過ぎると30万円を切り始めた。そしてクレームが続発した。原は、何をすればいいのか分からなかった。もともと、店長の仕事は何も分からなかった。そして、原は社員1人でお店を運営することとなった。
「状況を改善するために、何をすべきなのかが全く分かりませんでした。アルバイトに自分の弱みを見せるわけにもいかず、孤独で話しができる相手もいませんでした。そんな中、新入社員の山本君の存在は大きな救いとなりました。彼と一緒に働けた最後の2年間で、徐々にですがお店を立て直すことができました」。
原はこの時期、第一子を授かる。しかしながら家に戻ることができない日もあり、家族との時間をほとんど取ることができなかった。そして妻は育児ノイローゼとなる。
「自分にとって大きな禍根となりました。仕事も家庭に関しても、全く気づきがありませんでした。それから深く反省して、週に1日は、妻が自由になれる日をつくることにしました。そのことは今も守り続けています。これからもできるだけ家族との時間をつくっていきます」。

『掃除・挨拶・整理整頓』師の教えを実践

2011年6月には「一風堂神戸元町店」への異動が決まる。新潟店での失敗を振り返り、原はもう一度一からやりなおそうと決意する。そのために目標を定めた。
「店長の仕事は何か、それはまだ分かりませんでした。原点となる河原会長の教えを実行することにしました。それは『掃除・挨拶・整理整頓』の徹底でした。出勤したらまずトイレ掃除に入りました。スタッフさんには自分から進んで元気よく挨拶しました。これらのことは、自分で決めた約束を守り続けた初めてのことでした。スタッフとのもめごと、セカンドの岡君との言い合いもありはしましたが、10ヶ月経って前年実績を超えるようになりました」。
2012年から原は、姫路店と神戸元町店の2店舗店長、2013年からは関西エリアのエリアマネージャーに昇格する。
原は担当店舗が増えても、『掃除・挨拶・整理整頓』を徹底した。行く先々で率先してトイレ掃除に入り、大きな声でスタッフに挨拶した。
そんななか、2013年大名総本店で食中毒の事故が起こる。FA制度は廃止となり、10月に原は人事担当へと異動となる。
再び原は、人事の仕事は何か、全く分からない状況に置かれることとなる。そして、とにかく勉強することを自らに課した。

人事配属を機に、様々な学びの機会を得る

原は力の源での学びの機会を振り返る。
「最初の学びは、くしふる0研修でした。初めて自分自身を客観的に見ることができました。研修のメンバーに、本田一成さん、東江貴之さん、緒垣俊輔さんがいました。自分はこの先輩達が苦手でした。しかし共同生活の中で接していくうちに、いい人たちだと分かりました。何で得意ではなかったのかを振り返ると、自分に無いものを持っている、憧れや羨ましさの裏返しであることに気付きました。自分の気持ちを変えることができた大きな気づきとなりました」。
2013年から始まった、くしふるアルバイトフォーラムでは人の前に経って講義する機会を得る。何かを伝えるためには120%理解できていなければならないことを知る。
同年に受講した日総研PSVでは、自分を掘り下げて見ること、そして感謝することの大切さ、さらに目標に対してどれだけ真剣に取り組むべきかを学ぶ。
柴田塾では、収入1,000万円超の受講者とともに学びながらビジネスの基本が全く足りないことを痛感するが、与えられた課題のプレゼンでは、16名中1位の評価を取ることができた。少しの自信も持てた。
2014には、日総研PSVを参考に、力の源店長育成60日間プログラムを設計して全店舗の店長およそ80名を指導する。
「やりきった実感を持てました。毎日全員の日報を読みメール返信しました。受けての思いは分かりませんが、やったことに間違いはないと確信しています。課題は、ゴールイメージがぼんやりしていたため、PDCAをきちんと回せなかったことです。研修ではなく、現場に落とし込むためにOJTのプログラムへと発展させ、再度チャレンジしたいですね」。
2015年には『7つの習慣』店舗運営の心得ファシリテーター養成講座を受講すし、山王店を『7つの習慣』モデル店舗すべく取り組んでいる。
「原理原則を骨格とする『7つの習慣』は、時代、国境を超えて伝わります。それは力の源の目指すところと同じです。まさしく『変わらないために変わり続ける』の教えと一致します」。

現場と経営が分かる人財になる

今後のビジョンについては。
「2019年には、力の源カンパニーの代表となることを目標としています。そのためにはMBAの知識と実践が不可欠と思っています。今年の4月からグロービス経営大学院の本科に入学して、最短の2年でMBAの取得を目指します。かなりの費用もかかりますが、妻には本気でプレゼンして了解を得ました。力の源に所属しながら、日本の飲食業のイノベーションに貢献することが今の大きな目標です」。
グロービスにおいて、これまで原は、マーケティング、アカウンティング、ファイナンス、人材マネジメント等の単科コースを6科目自費で受講している。現場を知り尽くした人材が、経営マネジメントを武器にする、その先駆者としての活躍が期待される。