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『名島亭』をみんなが知っているラーメンブランドに、
一人ひとりにファンができるお店に

吉田 龍太

名島亭 JRJP博多ビル店

父は言った「そろそろ定職に就け」

吉田龍太は佐賀県唐津市の生まれである。吉田の父は高校を卒業すると、唐津バルブ工業という地元企業に就職した。そしてその企業一筋に40年を超える仕事人生を全うした。吉田はそんな父を見つつも、父とは異なる人生を歩んできた。
高校を卒業すると東京にあるコンピュータ関連の専門学校に入学する。コンピュータの分野への憧れを抱いていたが、その分野の勉強には馴染むことができなかった。1年で切り上げて地元に戻る。
そして父の兄が勤めていた、唐津コンクリートブロック協業組合に入る。仕事は安定しており不満はなかったが、福岡に出て音楽活動をやりたいという気持ちが頭をもたげてきた。吉田は3年ほど前から、福岡の仲間とバンドを組んで音楽活動を行っていたのだ。4人のロックグループで、吉田はベースギターを担当していた
福岡のカルビ大魔王でアルバイトをしながら日曜日に練習を行った。ジョイントコンサートも企画するなど、とても充実した日々だった。その生活も26歳になると終わりを告げる。メンバーの一部が就職を決めたのだ。プロになる意識はなかった。バンドは自然に解散した。
吉田は地元の唐津に戻ろうかとも迷ったが、福岡の賑わいに触れていたいと思い建築関連の荷揚屋の仕事に就く。現場での重労働を7年続けたが、「もう帰ってこい。定職に就け。」と父に言われ、唐津のグリーンアーツという造園関連の会社に就職した。吉田は33歳になっていた。

33歳のときラーメンの仕事に出会う

転機はやがて訪れた。新横浜ラーメン博物館(ラー博)からグリーンアーツに、佐野実氏監修のもと唐津のご当地ラーメンを作って出店しないかとの誘いがあり、それを受けたのだ。
ラー博の前に『新横浜ラントラクト』という大きな滝を設置しているビルがあり、その滝を作った会社がグリーンアーツだったのだ。縁は不思議なものである。
吉田はラーメン事業の担当となり、半年間ラーメンの勉強をしてラー博に赴いた。
お店の名前は『らぁ麺むらまさ』。玄界灘の塩と唐津の食材を使った塩ラーメンをメインに、豚骨、醤油もメニュー加えた。佐野氏の店舗で研修を受けながら、2009年に出店した。
吉田はそれまで、豚骨以外はラーメンじゃないと思っていたが、佐野氏のレシピをもとに作った塩ラーメン、醤油ラーメンも美味しくて感動した。 ラー博での反響は予想を超えた。初日には600杯のラーメンが出て、以降も300〜400杯と安定した売上を上げていた。
ラー博の出店期間は6ヶ月だったが、その後に地元唐津への出店が決まった。吉田は新規事業の責任者として、2010年4月唐津市菜畑のロードサイドに36席の『らぁ麺むらまさ』をオープンさせることになる。そして同年9月に、ラー博で共に仕事をしていた女性と結婚する。今は一男一女の父である。

一風堂のニュースを度々耳にして興味を抱く

『らぁ麺むらまさ』は順調だった。しかし、4人いた社員のうち3人が造園事業へと帰っていった。吉田は社員として一人残り、アルバイトを管理しながら激務を続けた。そんな折、一風堂のニュースを度々目にすることになる。 世界へと羽ばたく一風堂を見て、面白そうだなと思った。そして2015年1月16日力の源カンパニーへと転職する。
吉田が入社したとき、『名島亭』のラー博への出店が決まっていた。本店での研修を受けたのち、吉田は再び『名島亭』の立ち上げのためラー博に赴くことになる。なぜか縁は繰り返すものである。吉田は当時を語る。
「『名島亭』のことは知っていました。福岡にいたときに2〜3回行きました。あっさりした豚骨スープでしたが、とても美味しかった記憶があります。そして実際にスープづくりに携わって、その奥深さに触れました。長く続いている理由も分かりました。スープは絶品ですが、やはり城戸オーナーの人柄でしょう。人柄とこだわり、そしてお客様への真摯な姿勢が伝わっていると感じました」。
ラー博での仕事を終えると、次は博多駅JRJPへの出店が待っていた。
本当の意味での吉田の挑戦が始まっている。

お客様がファンに育つ店づくりを

力の源に入社してからの思いを聞いてみた。
「ラーメン以外で学ぶことが多いですね。特に『7つの習慣』では、今までの自分の考えが覆されました。主体的・反応的では、今までの自分の言葉、行動が反応的であったことに気付きました。何か問題が起こると、会社や環境に不満を抱き責任転嫁していました。それでは、いつまでたっても問題は解決されませんし自分の成長もありません。そして、『ありがとう』と言われる回数が増えました。自分もよく『ありがとう』と言うようになりました。『ありがとう』の言葉により気持ちがほぐれ、お客様やスタッフに一歩近づけるようになりました。」
お店の改善・改革については。
「『名島亭』のファンづくりを強化したいですね。昨年4件のお褒めメールをいただきました。その4件はすべて一人の女性スタッフに宛てられたものでした。1件は聾唖の人からのメールでした。自分の言葉に手話で応えてくれたことへのお礼でした。もう1件は仕事で落ち込んでいたとき、声をかけてもらい元気が出たというものでした。ほんの少しの気遣いでお客様は嬉しくなります。私も含めて、スタッフ全員が真にお客様と向き合えるようになりたいですね」。

『名島亭』を福岡の有名ブランドに

『元祖 名島亭JRJP博多ビル店』を元気にすること、関東地区へ出店すること、博多のブランドとしてさらに認知してもらうこと、など、吉田はさまざまなビジョンを描いている。そして最後に家族について語った。
「結婚して7年目を迎えますが、子供も大きくなりましたので、近いうちに家族で旅行をしたいですね」。