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発展途上にある国々が僕の肌に合っている。
日本の食と文化を一風堂というお店を通して世界中に伝えてゆきたい。

三上 貴司

一風堂事業本部

東日本第1・第2チームリーダー

音楽の世界を諦め、一風堂に飛び込む

福井県福井市が三上貴司の故郷である。高校2年生のときからロックバンドを組んで、ヤマハが主催するコンテストに挑戦した。担当はボーカル。ディープパープルやエクストリームの楽曲を練習して腕を磨く。
高校を卒業すると大阪にある芸術系の専門学校に入学して音楽の勉強に打ち込み、卒業後は同校のアシスタントを務めながら演奏活動を続けてゆく。
しかしながら音楽の世界でプロとして成功することは極めて難しい。二十歳頃、三上はその現実と向き合いつつ自分の限界も感じるようになる。そして、時給が良かったことが理由ではあったが、一風堂梅田店でアルバイトを始めることとなる。

当時を振り返る。

「専門学校の先生が梅田店に来てくれました。僕の働いている姿を見て、『ちゃんとラーメンのステージに立っている』と言ってくれました。僕は、ラーメン屋でも、何か自分を表現することができるのではないかと思いました」。
当時の店長は奥長義啓であった。三上は奥長からいろいろと面倒を見てもらうことになる。そこから三上の新たな生活がスタートする。

アルバイト時代のことを三上は振り返る。

「梅田店ではとにかく忙しくて、店を回すことしか考えていませんでした。そんなとき、奥長さんから北海道の札幌狸小路店の立ち上げヘルプに行くことを勧められました。そこで初めて『お客さんを見る』ということを学びました。梅田店に帰ってからは、回すだけではなくてお客さんを見ようと働きかけ、メンバーともめましたが、より良い接客へとチャレンジしました。それを機に、仙台青葉通り店、神戸元町店、なんば店、新潟店と新店立ち上げのヘルプを経験させてもらいました。いろんな人との関わりを持つことができ、仕事の幅が格段に広がりました。そして、IPPUDO NYへ3ヶ月間ヘルプに行けたことは自分にとっての大きな自信となりました」。

アルバイトではあったが一風堂での収入には満足していた。仕事も面白くやりがいも感じていた。そんなある日、一風堂を離れたら、結局は社会での信用も立場もないただのフリーターでしかないと気づかされた。
そして2009年9月、三上は29歳のとき社員となる決心をする。
三上にはすぐに転機が訪れた。社員になって3ヶ月で一風堂TAO福岡の店長となる。一風堂TAOは新業態のお店だった。オープンに際しては宮崎千尋、難波秀雄たちがサポートしてくれて順調に開店できた。

店長に昇進したときのことを三上は思い出す。

「滑り出しは順調でしたがすぐにほころびが生じました。僕は店長の仕事をまったく理解していなかったのです。一人の頑張っているスタッフともめて、『辞める』とまで言われました。よくよく話を聞くと、自分は言葉で言うだけで行動で示していなかったのです。振り返ると、先輩たちはいろんなことを行動で示していました。僕もその行動をずっと見てきたのですが、それにも関わらずチームをまとめる本質を掴んでなかったのです。この一風堂TAOでの経験は大きな学びとなりました」。

三上は富山店のオープン、金沢香林坊店の店長兼務、錦小路店の店長と経験を積んで、2014年4月からインドネシアに向かうこととなる。

インドネシアでの一風堂立ち上げについては

「提携先のマレーシアの企業と調整しながらインドネシアで一風堂を立ち上げることが目的で、オペレーションコンサルタントとしての役割に就きました。
インドネシアはイスラム圏ですので、戒律も厳しく豚肉に対する制限もあります。メニューの構成や仕事の組み立てなど、習慣の異なる人たちと調整を重ねて『一風堂ブランド』の確立と維持を果たさなくてはなりませんでした。インドネシアという一国において一風堂を担うという誇りを持って仕事に取り組めたことは、僕にとっての貴重な経験となっています」。

三上は現在チームリーダーとして横浜と東京において計6店舗を率いている。

チームリーダーの仕事について語る。

「外食を取り巻く環境は厳しいものがあります。外食需要の減退、競合環境の激化などですが、そのような外的要因はさておき、現場力の向上を店長とともに推進することが僕の一番の役割だと考えています。そのためには、身だしなみ、挨拶、掃除、整理整頓、QSCと、当たり前のことをきちんと行い、その水準を高めることが求められます。基本の基本ですが、それを柱に取り組んでいます。中期的には、2020年東京オリンピックに向かって、イスラム圏の方々もたくさん日本に来られると思います。外国の方々が日本において安心して食事ができる環境を整えてゆきたいですね」。

将来のビジョンについては、

「力の源は世界展開を加速してゆきます。2年後にはまた海外に手を挙げたいですね。僕は、発展途上にある国々が肌に合っているようです。インドネシアもそうでした。そういう国々のエネルギーを感じながら、日本の食と文化を一風堂というお店を通して世界に伝えてゆきたいですね。早いもので今年37歳になりました。いろいろ回り道もしましたが、自分がイメージしていた37歳というステージにようやく追いついてきたように思っています。」