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大名本店18代目の店長として、
誇りを持って自分の道を切り開く

齋藤 潤哉

一風堂大名本店店長

表現したい気持ちをラーメンに向ける

静岡県浜松市、おだやかな田舎の町に齋藤潤哉は生まれ育った。小学校1年生のときにボーイスカウトに入り、3年生からは剣道を習い始める。
齋藤の母は付き添いでボーイスカウトに入り、組織の運営のリーダーを担当した後に隊長を任されることになる。さらに娘時代から茶道を学び今も茶道の先生を続けているという、自分の意思を持ち行動に移せる女性である。
中学校の頃から齋藤は音楽に興味を持ち始める。ギターを買って練習したが上手くいかない。そのため演奏よりも聴き手にまわることにした。ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトに触発されロック音楽に惹かれて行った。
「自己表現が格好良く思われ、音楽やバンドをやっている人に憧れました。その表現手段がラーメンに転化していきました」

当時は一風堂と河原会長が頻繁にTVに出ており、ラーメン業界が脚光を浴びていた。齋藤はクラブの先輩とよくラーメンを食べ歩いていたそうだ。そして高校3年生の秋口に、近所のラーメン屋でアルバイトを始めることになる。
「そのラーメン屋は有名なお店ではありませんでした。近所にあった小さなお店で、あまり目立ちもしませんでしたから。しかしラーメンがとっても美味しくて、コの字型のカウンターの中で黙々とラーメンを作る大将の姿はすごく格好よかったですね。そして、僕はラーメンを表現したい、ラーメン屋になりたいと思うようになりました」
齋藤は店長と仲良くなり、勧められて大好きだった豚骨ラーメン発祥の地、九州・福岡に行こうと気持ちを固めた。

原点の日でボロボロになる

高校を卒業すると福岡で1ヶ月間レオパレスを借りてラーメンを食べ歩いた。一風堂はよく知っていたが、TVで見た一風堂はおっかなくて行く気がしなかった。それでも一風堂のラーメンは美味しかった。
色々とラーメン屋を見て回ったが結局は一風堂 薬院店の門をたたき、2004年の4月からアルバイトとして働くこととなった。
薬院店はオープンして6ヶ月ほどの新しいお店だった。海鮮食堂すいかから移ってきた平田正志、そして松下浩二がいた。それからおよそ10年間、古賀研三、中村雄、緒垣俊輔、相馬寛之、和田響と5人の店長に着くことになる。
「僕はラーメン屋になる夢を叶えるために一風堂に入りました。しかし豚骨スープは工場生産でしたのでがっかりしました。醤油ラーメンはありましたので、清湯スープは必死になって学びました」

齋藤が薬院店で働き始めた年に、大名本店で河原会長と仕事をともにする原点の日が始まった。奥長、難波、熊本、今野、そうそうたるメンバーに交え、齋藤は勇んで参加したがボロボロになって帰ってきたという。
「河原会長からご飯の盛りが汚いと何度も注意されました。さらに、オーダーの取り方が悪い、声の出し方がなってない。何一つできずにメチャクチャ落ち込みました。熊本さんからは3番(休憩)に行けと言われ、部屋に入った途端膝から崩れ落ちました。こんなことになるとは……思ってもいませんでした。薬院のスタッフの中では一番できると思い込んでいましたが、当たり前の基準が全く違ったのです。それでも、名前と顔は覚えていただいたようです」

様々なお店の立ち上げに参加して、成長を実感する

それからしばらくして盛岡店の立ち上げに参加することになった。篠原猛、篠原真理子、東江貴之などのベテランに混じり齋藤は一生懸命にチャーハンを振った。篠原猛からは麺上げが汚いと注意を受けたが、いろんなメンバーと仕事ができて楽しかったという。
松山店のオープンには第2陣として参加した。参加する前に、松山は大変だ、全然うまくいってないと言われてお店に向かった。そこでは気難しいマネージャー木村が指揮をとっていた。齋藤は、先回りして段取りを整え、万全の体制でのぞんだ。「バシッと決めてやろう」と。
木村が麺上げ、齋藤がデシャップを担当した。そして閉店のとき、「今日は良かったな」の一言を木村からもらった。

2009年のたまプラーザ店のオープニングは散々だった。それまでは、マネージャーや多くの店長が集まってお祭り気分も味わえたが、出店ラッシュも重なり組織的に計画的にと方針が変わってきた。
店長は石本裕樹。そこにマネージャーの熊本智明と佐藤優介が参加した。たまプラーザ店は薬院店に比べ客数が格段に多かった。
「少ない人数で役割を決め、仕事を整理しながらスタッフの教育を進めなくてはなりません。薬院では感覚で仕事を進めていて、多くのお客さんに対応する知識は全く持っていませんでした。食材や料理の時間など、すべてにズレが生じて成すすべがありませんでした。疲れ果て、バイトなのに何でここまでやらないといけないのかとの被害者意識も生じて、初めて“帰っていいですか”と熊本さんに弱音を吐きました。熊本さんは“何もできとらん”と突っぱねました。完全な負け戦でした」
「リベンジを心にのぞんだのが西宮北口店のオープニングでした。店長は熊本さん、舞台は用意されました。レシピや段取りなど、あらゆることを想定して、あらゆる準備を整え向かいました。
そして熊本さんから一言『成長したな』と褒められました。大きな達成感を味わった瞬間でした」

10年を区切りに、社員の道を選ぶ

薬院店で10年間近くアルバイトを続けることになる。なぜ社員を希望しなかったのか…。
「多くの先輩から社員になることを薦められました。しかし、勤務地のことやスタッフとの関わりで、ビビっていました。それまでは、自分のことしか考えていなくて、スタッフを育てる意識は全くありませんでしたから」
社員になる決心をしたのは。
「社員になる気はなくて、10年を区切りとして辞めようと考えていました。意地を張っていましたね。でも現実を見ると、独立するにもお金は貯まっていないし、知識もないし、アルバイトはアルバイトでしたね。そんなとき、事務所に呼ばれました。清宮さん、島津さん、井尻さん、星崎さん、和田さん。2階の会議室に全員集まっていました。ホワイトボードに大名店・齋藤と書かれていて、ヘルプじゃない君に担当してもらいたいと言われました。これだけの先輩から期待されていましたので、『やります』と答えました。期待されるのも、ここが最後と分かっていましたので」。
齋藤は2014年1月から社員となった。

『本店を取り戻す!!』を目標に

齋藤はアルバイトから社員になってから、全てが違ってきたという。それまでは、ラーメン屋になるという自分の夢を叶えること以外、そして自分が楽しい人生を送ること以外は、何に関しても興味が持てず、何も考えていなかったという。そして社員になって新たな目標を持つことができたそうだ。
「当時の大名店は食中毒の後、どう立て直すかの一番厳しい時期にありました。このタイミングで、この話を断るのはもったいないと思いました。ビビっている場合ではありませんでした。大名店は食中毒のあと大名本店の看板を降ろしていました。そして『本店を取り戻す』が私とスタッフで掲げた最初の目標となりました」。

齋藤が店長を引き受けたとき、大名店はチーム今野として出来上がっていた。その中に齋藤は参加した形である。4月に今野は社員となり、ほとんどの大学生アルバイトが卒業した。ここから齋藤の新たな店づくりが始まることになる。2016年1月1日、河原会長と島津本部長が大名店を訪れ、河原会長は笑顔でお店を後にした。そしてその日、大名本店へと看板が戻ることが決まった。

本店らしさって何だろう。齋藤はふと思う。
「アルバイトを始めた頃、難波さんが店長で、土井さん、響きさん、今野さんが本店にいました。本店に行ったら、何かしらの感動がありました。それは“空気感”かもしれません。今の本店とはインテリアも異なっていましたが、空間とともに人が醸し出すものでしょうね」。

一風堂はいつも、ラーメン業界のど真ん中にいる

力の源に入って良かったことについて聞いてみた。
「一風堂はいつもラーメン界のど真ん中にいます。河原会長の存在感も絶大で、常に業界をリードしています。そんな凄いところで仕事ができることは本当に有り難いことですね。最初盛岡店の立ち上げに行ったときは、そんな凄い一風堂の最前線にいると感じました。今は本店で働かせていただいています。なんて恵まれているんだろうと感謝が尽きないですね」

最後に、今後の抱負については

「現在福岡地区のチームリーダーを任されています。同じ世代が頑張っていますので、自分たちの世代がもう一段上がってゆかないといけません。個人が成長して、エリアとしての結果を出せるようになったとき、次のステップが見えてくるでしょう。会社の中でステップアップするか、暖簾分けに手を上げるか、独立の道を拓くか。そのときに決断するでしょう。私は大名本店の18代目の店長です。誰にバトンを渡すかも大切な役割で、この大きなバトンを大切に継承してゆきます」。