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『原点の日』を体験した一人として、
『THE一風堂』を後輩に伝えてゆきたい。

田中彰吾

一風堂事業本部東日本第1チームリーダー

大名本店で強烈な個性の先輩たちと出会う

熊本県立玉名高等学校の野球部で、田中彰吾はピッチャーを務めた。熊本県下でベスト16と、そこそこの成績を残す。将来は自衛隊パイロットになりたいと希望し、自衛隊航空学生を受験する。3次試験の実技まで進むも採用には至らなかった。3次試験はT-3というプロペラの練習機に乗って実際に空を飛んだそうだ。
予備校に通いつつ再度受験したが失敗、福岡大学経済学部へ進学した。大学に入ると一風堂大名本店にてアルバイトを始める。2002年の4月末のことであった。
当時の店長は山本精二、まもなく篠原猛に代わる。この本店で田中は、現在店主になっている猛者たちと仕事を共にすることとなる。藤瀬、東江、熊本、和田、難波、土居といった面々である。2004年、篠原が北海道狸小路店の立ち上げに向かうと、和田、難波が店長を引き継ぐ。今野貴美江、土居勝博とも仕事を共にできたこの期間は、学生だった田中にとって仕事と人生の基本を学ぶ貴重な経験となった。田中は語る。
「部活みたいな雰囲気でとても楽しかったですね。洗い場から焼き場、デシャップから麺上げと、尊敬する先輩たちに少しずつ近づけている感じがして、一緒に商売をやっている感覚がとても励みになりました。また、一風堂大名本店は特別な存在で、全国からこの店を目指して訪れるお客様がたくさんいました。そういう方々に喜んでいただけるように、プライドをもって仕事をしていました」。
そして、当時本店で行われていた『原点の日』も体験する。
「月に2回、河原会長が店に入られる『原点の日』は刺激的でした。全国から店長が集まりますし、河原会長が醸し出す空気感は特別のものでした。会長と共にしたまかない飯も今では大切な思い出となっています。当時は30店舗ほどの規模で、ほとんど全店の店長と顔見知りになれて、学生でありながら一風堂ファミリーの一員になれた感じでした」。

転職を重ねて一風堂に戻る

大学を卒業すると田中は、『権八』福岡天神店がオープンするとともにグローバルダイニングでアルバイトを始めた。田中は語る。
「仕事は楽しかったですね、でも230席という規模のため、隅々まで目を配ることがかないませんでした。熱心に誘ってくださるお客様がいらして、小さな店で再度頑張ろうと思い転職を決めました」。
新たなお店を軌道に乗せると、今度はNTTの法人向け電話の代理店へと働く場を変える。しかし、自分の思いと現実の仕事とのギャップは広まっていった。30歳を迎えるころ田中は、もう一度人生を見つめ直そうと2013年8月退職した。そして11月天神で和田とばったり出会う。
「和田店主から声をかけて頂きました。一旦はお断りしましたが、大名本店で勤めていた当時の熱い思いがよみがえり、12月から薬院店でお世話になることを決めました2014年9月2日に薬院店で店主だけの原点の日がありました。私はお客として店に行きましたが、お店の前の長い行列にびっくりしました。麺は足りるのかなと心配になり在庫の確認に入りました。すると洗い場にメチャクチャどんぶりがたまっていました。会長がいらして『お前も入れ』と。熱いものがこみ上げてきて嬉しかったですね。そのとき、店主になりたいと心を決めました。一度一風堂を離れた私でしたが、店主の方々は昔と同じように接してくれました。やっぱり好きなんですね一風堂が」。

吉祥寺店の店主が目標

2015年1月、田中は社員へと立場を変え、関内店のオープニング研修で和田のもとで学んだのち、2015年2月店長の小川真貴とともに吉祥寺店の配属となる。当時の状況について田中は語る。
「店の雰囲気は、なかなか誉められたものでもありませんでした。スタッフとも対話を重ね、半年かけてスタッフの充足を100%達成できました。そこから徐々に好転してきました」。
田中は2015年9月店長に昇進し、そこから着々とステップを上がりつつある。今後のビジョンについて聞いてみた。
「吉祥寺店の店主になることが目標です。この店が大好きです。プライベートでは97kgの体重を1年で80kgまで落としたいですね。私の課題は、自己管理能力が足りないところです。先日受講した7つの習慣の研修で、分かっているようで分かっていないことが明確になりました。自分で決めた小さなことをやり続ける習慣を身につけます。ノリと勢いは取り柄ですが、それだけでは人生を切り開くことはできません。『克己』が私のテーマです」。
学生時代に触れた一風堂の精神を心の支柱とする田中。『原点の日』を体験した一人として、『THE一風堂』を後輩に伝えてゆきたいと最後に語った。