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今が一番、自分の成長を感じることができる。
ビジョンも描けて、今の自分は恵まれている。

小林 登隼

一風堂山王店

安定した暮しに背を向けて飲食の扉を開く

埼玉県入間市、東京のベッドタウンに小林登隼は生まれた。サラリーマンの父に子供3人の5人家族、ごく普通の家庭である。父と母は、普通に安定した暮しを望み、兄も弟も地元の企業に就職してその道を歩んでいる。
小林はそんな家族の生き方に違和感を感じていた。「普通でいいんだろうか。それでたのしいんだろうか。もっと自分らしい生き方があるはずだ」と。
小林は、中学校、高校とバトミントンに打ち込んだ。楽しくて面白くてプロを目指したいと思った。そして練習を積み重ね、高校2年生のときには埼玉県の大会で2位を、3年生になると1位を獲得した。
「優勝したことはとても自信になりました。しかし、埼玉県で1位になったぐらいではプロにはなれないとも感じていました」。
小林は迷いに迷って、バトミントンの次に好きだった料理の道を目指そう、そして将来は自分の店を持ちたいと思った。そのことを父に話すと。
「やめとけ、安定した職業を持つ方がいい」。と言われた。
しかし小林は、「そんなのつまらない」と思い、料理を学ぶため、埼玉県の西武調理師専門学校に入学する。そして、地元の有限会社天松という天ぷら屋に就職した。

安定はしているけど、このままでいいのかな

19歳で入った飲食の現場は、小林の思いとはかけ離れたものだった。1年半で退職して地元の結婚式場に転職して調理を担当する。ここも長くは続かず、22歳のとき、病院や老人ホームの給食事業を請け負う日清医療食品に再転職する。同社は給与面も労働環境も整備された会社だった。週休2日、有給休暇も取れて生活も安定した。
同社に勤めて4年が経ったとき、小林は結婚して子供も授かった。父が望んだ「普通の幸せ」がそこに垣間見えた。
小林は再び考えた。「安定はしているけれど、このままでいいのかな、と思いました。本当にやりたい仕事ではありませんでした」。
本当にやりたい仕事とはなんだろうか、飲食業でお店を出すとしたらどんなお店だろうか、自分が本当に興味を持てる仕事はなんだろうか……深く考えた。そして小林は語る。
「人生を振り返ってみると、家族で行ったラーメン屋が記憶に強く残っていました。友達ともよくラーメンを食べにいきました。飲食の仕事の中で、ラーメンがはっきりと形をなしてきました。そして、自分はラーメンが好きなんだとあらためて確信できました。

大宮店のアルバイトを1日で辞める

小林は安定した職場を捨てて、28歳のとき全国でも有名なチェーン店を展開するラーメン屋に転職する。
小林は、埼玉から1時間半をかけて荻窪にあるお店に出勤する。お店ははやっていて、朝7時から翌朝4時まで仕事が続くこともたびたびあった。激烈な労働環境だった。それにも関わらず給料は激減して生活にも支障をきたすようになる。
そんな小林を見て妻は心配した。自分のやりたいことは応援したいが、体がもつだろうかと。
そんなとき、大宮に一風堂がオープンした。一風堂のことは知らなかったが、お店を訪れて小林は衝撃を受けたという。
「店に入った瞬間、接客に対する心配りが凄いと感じました。それまでラーメン屋といえば、ラーメンを出すだけで終わりと思っていました。笑顔、気配り、お客様への配慮など、ラーメン屋の概念が変わりました」。
小林は収入の不足を補うためダブルワークをやってみようと思い一風堂でのアルバイトを希望した。しかしながら、初日勤めてこれでは続かない、迷惑をかけると感じた。その旨を店長の白石亮に伝え、大宮店での仕事は1日で終了した。

妻の希望を受けて福岡に転居

小林が自宅で過ごす時間は目に見えて少なくなった。そんな折、妻は故郷の福岡で子供を育てたいと告げる。日々の激務と先が見えない不安もあり家族は福岡への引っ越しを決めた。
小林は大宮店で感じた一風堂の衝撃を忘れられず博多駅店でのアルバイトを始める。店長は大迫祐介、オープン間もない博多駅店はとにかく忙しかった。 博多駅店に入ると、一人のお客様を大事にする姿勢が伝わってきた。
「以前の職場では、ラーメンをどんどん出すだけでした。ラーメンを作るのが仕事でほとんど作業的にやっていました。『一杯のラーメンと一人のお客様』という考えは頭では分かってはいましたが、忙しい店内で、自分ができることとは全く別でした」。
小林は31歳のとき社員試験を受けて4月1日に入社する。そして広島袋小路店の配属となる。
袋小路店では、一人のお客様を大事にしようと心がけた。それまでは、「いらっしゃいませ」「面入ります」「ありがとうございました」といった決まり文句ぐらいしか声を発していなかったが、徐々にお客様が何を欲しているのかを考えて仕事をするようになってきた。そこから少しずつ視界が開けてきた。
そんな中小林はくしふる研修に参加する。
「くしふるでは初心に帰ることができました。博多駅店では忙しさに慣れっこになっていて、多くのお客様を相手に自分は出来ていると勘違いしていたことに気がつきました」。
小林は力の源に入って感激したことについて語る。
「日常の、お客様からのなにげない言葉“美味しかったよ”“ありがとう”という言葉が、どれだけありがたく嬉しいものかが分かりました。以前は全く気がつきませんでした。同じ言葉が全く違った響きを持つことにびっくりして感動すら覚えました」。

自分のビジョンを描けるようになった

その後小林は、2016年5月には西通り店、8月からは山王店に入る。店長の原からはマネジメントを学ぶことになる。
「広島までは一プレーヤーだったことが分かりました。広島は業績が好調でしたが、それは自分がコントロールしているのではなく、店長や他のスタッフが頑張ってやってくれていた結果だと理解しました」。
小林は現在、原から多くを学びつつ、山王店を『7つの習慣のモデル店舗』とすべく取り組んでいる。
「力の源は人を成長させてくれる場に満ちています。これだけのコストとエネルギーをかけて人を育てる環境を用意してくれる会社は初めてです。原さんと巡り会えて、今いちばん自分の成長を実感しています」。
今後のビジョンについては。
「これから勉強を積み重ねて、店長、チームリーダーを目指します。そして10年後の45歳で独立して埼玉にラーメン店を開きます。今の時代、サラリーマンも不安定で年金も不安です。自分の力で家族を守れる基盤を作りたいですね。そして今でも心配している両親を安心させ、生まれ育った故郷で“美味しかったよ”“ありがとう”の言葉を感じながら生涯現役で頑張ります」。
小林は、今を大切にしながら未来を見据えている。今までおぼろげだった夢とビジョンに向って一歩一歩あゆみ始めている。