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夢は48歳で力の源カンパニーの社長になること

高江洲 昌平

一風堂博多駅店 店長

(現・一風堂西通り店)

『店は舞台』河原会長の思いに感銘した

高江洲昌平は大濠高校時代演劇に熱中していた。男子校であったがゆえか、演劇部はお客さんを笑わせることに意識が向いていた。そして演劇の経験がもとになり、後々河原会長の『店は舞台』というメッセージは高江洲の心に深く焼き付くことになる。
学問的には地理に興味があった高江洲は、その分野で有名な法政大学と立命館大学を志望する。そして指定校推薦制度に応募して立命館大学に進学する。 大学ではアルバイトに傾注する。
1〜2年生の時には、ボーリングやゲームを提供するラウンドワンにおいて、クレーンゲームのコーナーを担当する。ゲームが趣味でお客様を楽しませることが大好きな高江洲は、このコーナーで存在感を発揮する。
クレーンゲームには30%ペイバックルールがある。原価600円の景品をゲットするために1,800円使っていただくというルールである。
普通にプレイしていては景品をゲットすることはできない。2,000円近く使っていただいたお客様が帰られるとき、高江洲は走って追いかけ「アツい位置に置きなおします。もう少しチャレンジしてください」と声をかけ、取りやすいように景品の配置を変えた。そしてお客様にゲットして喜んでいただけるようにサポートを行った。このやり方は高江洲方式として上司から褒めてもらえた。 その後、1ヶ月ほどのシドニーへの語学留学を終えてアサヒビールの直営レストランに入る。ここでも高江洲はアイデアを発揮する。
お客様は席に就かれるとまずビールを注文される。そのときに「枝豆はいかがですか。すぐにお出しできます」と一声かけるのである。枝豆は、「すぐ出せる」「アルコールの分解作用がある」「悪酔いを防げるため次の一杯をおすすめできる」「料理までの間をつなげることができる」「リーズナブルで利益率が高い」「ひとこと言葉を添えることにより顔を覚えてもらえる」などなど、絶大な効果がある。
高江洲は大学生の仲間と飲み会の場で共有した。仲間は賛同して枝豆をおすすめした。すると9割近いオーダーを得ることができた。
これも高江洲式の接客として上司から賞賛を得ることになる。この時の「飲食業は面白い」という経験は今につながっている。

サービス業に目を転じると道が拓けた

就職先の第一志望はゲーム会社だった。しかし、ことごとく失敗する。これではいけないと自己分析を行いサービス業に目を転じる。するとトライした会社すべて内定を獲得できた。その一社が力の源であった。
演劇部だった高江洲は、河原会長の『店は舞台』という考え方に共感した。そして採用担当の岩瀬久美子にも惹かれた。博多弁がなつかしかったこともあったが、岩瀬は自社の説明はさておき、高江洲の相談を親身になって聞いてくれた。その姿勢に心が動き入社を決めた。
最初の研修店舗は阿部正寛が店長を務める恵比寿店だった。昔ながらの「見て覚えろ」が基本の武闘的なお店だった。毎日怒られ、毎日みんなで飲んで話しをした。3ヶ月後横浜工場に移った。
横浜工場ではスープづくりの勉強をさせてもらった。1日の仕事を終えて、No.1、No.2、ゲンコツ、背骨など様々なスープをブレンドして試食した。工場長の石井もサポートしてくれてスープづくりにはかなりの自信を持てた。
3ヶ月後山王店に移った。店長は田中博秋、一生懸命にお店を回していた。高江洲はこのとき今野喜美江と出会う。今野は高江洲に伝えた。
「君は笑顔がいいから笑顔を出しなさい。微笑み返しだよ」と。 演劇部でトレーニングを積んでいたこともあり、高江洲は笑顔を武器にすることを始めた。それから『高江洲スマイル』と呼ばれるようになった。

スキルが身に付かず苦しんだ新人時代

本配属は当時の「総本店」(現在の大名本店)だった。店長は中山雄太郎。今野喜美江、川端奈美、永石智香の女性スリートップが現場に立っていた。総本店で仕事ができる喜びは感じていたが、スキルが足りないため大変だった。笑顔と元気しか表現できず精神的にも苦しかった。
7ヶ月ほど勤務した後、一風堂TAO福岡に配属が変わった。店長は飯森彩。飯森はアルバイトさんへの気遣いが細やかで優しさにあふれていた。お店も安定しており自分の時間も持てて心も落ち着いてきた。
次の勤務地は、店長白石亮、セカンドが大和尚之郎の大宮店だった。ここで店長石本祐樹、セカンド高江洲との入れ替わりとなった。2人が同時に入れ替わるのは珍しいケースである。
大宮店はオープンして9ヶ月の新店である。売上げは梅田、ポルタに次ぐ規模でお客様が多いが、その割にスタッフの数が足りなく育ってもいなかった。仕組みも整っていなかった。スキルが足りない高江洲はロングシフトで対応するしかなく休みが取れなかった。
そんな中、店長の石本はガンガン走っていた。石本からは数字の作り方、アルバイトさんたちとの関わり方を学んだ。一番世話になり学ぶことが多かった先輩の一人である。
1年半後28歳になった高江洲は大宮店の店長に昇格する。途端にアルバイトさんたちの自分に対する見方や態度が変わったと感じた。
「出来ていないことに対する不満が表面化しました。冷たい感じを与えていたようで、アルバイトさんたちの心を一つにすることが出来ず、チーム作りに至りませんでした。自分が採用したスタッフとはうまくやれましたが、以前からいたスタッフとはうまくゆきませんでした。」よく見られるケースである。 石本は高江洲が店長になることを見越して、面接と採用を任せていた。自分の色を出すことを控え、ショップコンセプトもあえて作らなかった。そのような配慮に高江洲は今でも感謝している。
地獄の日々と本人は振り返るが、計2年間の現場での格闘を経て高江洲は西通り店へ異動となる。

石本と難波から
お店の仕組みづくりを学ぶ

西通り店の前任店長は再び白石だった。白石はスキルが高く人望もあり独自のチームを作っていた。
高江洲は、石本から学んだ仕組みや数値管理を根付かせたくて突っ走った。しかし、メンバーはほとんど聞いてくれなかった。愛情が足りないと言われたりもした。
「メンバーとは一つにはなれませんでしたが、売上げも利益も上げ結果を出せました。石本さんや難波さんに教えていただいた数値管理やアテンドの仕組みが成果につながりました。」
2015年2月からは、博多駅店と西通り店2店舗の店長を任される。博多駅店は是非ともチャレンジしたいお店だった。高江洲は、「僕に任せていただいたら必ず結果を出します」とアピールしていたのだった。
高江洲が入店したのは2月。博多駅店はスタッフ不足に陥っていた。総勢40名の体制が必要だが20名しか確保できていなかった。それが4月には実質稼働9名になるという。高江洲は時給を上げ採用媒体にお金をかけて30名のスタッフを確保することに成功する。その後も採用には力を入れ1年半で80名のスタッフを採用した。現在アルバイトスタッフは44名とようやく安定した体制を作ることができた。

人間力を身につけ社長を目指す

しかしながら、西通り店にはほとんど入ることが出来ずにいた。店の状態が悪化して1年間で9件のクレームを受けることとなる。やむなく高江洲は2016年5月から博多駅店の専任店長となった。
「昨年博多駅店では8件のクレームと1件のお褒めメールをいただきました。今年はクレーム3件お褒め7件と格段に向上しています。お店の状態も良くなっています。私は難波さんの考え方を受け継いでいます。それは、自分都合ではなく、すべてはお客様のためにあると考えることです。そしてきちんと自分の言葉で伝えるように努めています。」
高江洲は現在31歳、厳しい現場も経験してきたが、辞めようと思ったことは一度もないという。
「3〜5年経つとスキルが身に付いてきました。そうすると現場の面白さが分かってきました。西通り店と博多駅店では数字を作る面白さに目覚めました。現場はとても面白いです。今後は、私のショップコンセプトである『笑顔と感動を届ける舞台』という言葉をお店で具現化していきます。私の夢は48歳で力の源カンパニーの社長になることです。夢で終わらせたくはありません。」 力強い言葉が返ってきた。
自分の課題は人間力にあると察している。どのように学び成長していくのか、これからが楽しみな人材である